『64』原作と映画の違い 〜スパッと退職する方が主人公にふさわしい?〜
理不尽な職場などに辟易した場合、そこで耐え忍ぶか、すっぱり辞めてしまうかで、人の対応は異なる。私なぞは、あっさりと会社を変えてしまうことがこれまで多かったため、逆に、その場で耐え忍んでやり過ごしたり、ジワジワと組織や環境を変えるための努力をするような人の話に惹かれてしまう。
映画『64』の主人公って、県警辞めるの?
先日、映画版の『64(ロクヨン)』をみたのだが、ストーリーの終盤にさしかかって、あれれ? 原作と違って、主人公の三上さんは県警の仕事を辞めちゃうのかなと思った。
正確には、退職のシーンは出てこないのだが、家出中の娘の捜索を警察任せにせずに「自分の足で探す」という言い方をしており、その後、警察官として描写されるシーンがなかったため、辞めたとも受け取れるなぁと思った次第。
原作では、問題だらけの県警組織で、三上は人事やら上層部の保身やら、やたら正義感と既得権を振りかざすマスコミへの対応やらに辟易しながらも、誘拐殺人事件「ロクヨン」に絡んで県警の不祥事の露見が予想される中で、尊敬する上司をサポートするべく広報官のポストにとどまる覚悟をする。
一方、映画版の三上は若干暴走しがちで、刑事部の尊敬する上司を飛び越え、広報官の職務から逸脱してロクヨンの真犯人を追い詰めようとする。
原作では、愛憎相半ばで県警に残る
警察組織の理不尽さや独善的なマスコミとの衝突などに疲弊する姿は、原作と映画でともに変わらないのだが、組織に抗いながらも愛憎相半ばという形で組織と命運をともにする原作と違い、映画では最後には組織を離れる展開も示唆される(?)など、三上さんの孤高っぷりが際立つ形で描写されている。
映画が原作から離れ、よりヒロイズムを強調した演出となるのはありがちなことだが、同作品の場合、主人公が県警にとどまるのか否かは、個人的にはけっこうな勘所となっていたので、そこが原作と映画で真逆になるのだとしたら、んー、どうなんだろうなと思わなくもない。多くの人にとっては、たいした違いではないのかもしれないが。
『クライマーズ・ハイ』も、原作は残り・映画は辞める
そういえば、横山作品でみると、『クライマーズ・ハイ』も、原作と映画で主人公の去就が真逆だったのは、なんとも興味深い。
北関東新聞の記者である悠木は、原作では御巣鷹山事故の全権デスクを担当した後で、草津の通信部に飛ばされるが、映画版ではスパッと退社してしまい、クビをちらつかせていた社長が逆に動揺するという展開だった。
どちらの原作も、組織の不条理さの中で闘い、その不条理さにのみこまれそうになりながらも、愛憎入り交じる中で組織に残る主人公の生き方が妙にリアルで救いがなくて、惹かれるものがあった。しかし、映画にする場合は、やはり理不尽な組織から潔く去っていく主人公の姿を描く、ヒロイズムみたいなものが好まれるということなのだろうか。